いいねされなくとも今年を振り返れ他人に自分を委ねるな人 その①

 12月も一週目が終わってしまったよ本当にどうする。最近は真面目に勉強しているからまともな大学生になってきたとはいえ、今更まともになったところで残り少ない2018年に何かを成せるかと言ったら否であろう。何かをなすことにこだわる必要は無いのだけど、自分を省みるとついついそこに注目してしまう。

 客観的に見たら、今年に成したことナンバーワンといえば入試難易度も社会的評価も高い現在の大学に合格してしまったことであろう。実際に憧れ続けていた大学だし、合格したときは本当に喜んだ。憧れが現実になると夢を見ている気分になるなんていうけれど、ほんとうにその通りで、どこからか「ドッキリ大成功!」の札を持った人が目の前に出てくるのではないかと気が気でなかった。

 ドッキリと言うこともなく、大学生活がスタートする。

 新歓でタダ飯を食っていた。タダ飯を食わない日は自炊をしていた。今と比べると何もすることがなかった放課後、前期は何をしていたんだ?と思い出すとそう。自炊をしていた。ただ他に何をしていたかと言われると、鬱になってTwitterで鬱々していた以外に記憶が無い……。GyaOとかアマプラでルパンのテレビスペシャルを観たりスペースコブラを観たりしていた気もするな。在宅アニメ君。

 こういう生活は、受験生の時に抱いていた「大学生になったらこんなことするんだ」という期待感との落差が大きすぎた。具体的に言うと、私は大学生になれば我慢していた読書を解禁して、文豪の作品を読みまくるような気がしていたし、思い立ったら書く程度の取り組みしかしていなかった二次創作で長編を書いたり、自らゼロから話を作り上げて文学賞に応募したりするのかと思っていた。

 両者とも、達成の域には達していないだろう。前者はレミゼの三巻で挫折しているし、読もうと思っていた「戦争と平和」なんて一生読まないでしょうねこの調子では。そして後者は悲惨。実際の女性と触れ合う機会のある環境に投げ込まれたおかげで、純粋な脳内お花畑は汚染されてもうPドルなんて一生書けないような気がするし、もはやミリオンライブを追いかける体力がない。まあそれはよいとして。ゼロからの創作というのも難しくて全然取り組んでおらんし。適正ないんじゃねえの。大学は行ってから書いたのはハーモニーに触発されたのだろうな、と容易に推測できる痛いSF風二次創作だけである。

 よくよく思えば90ブクマくらい貰っているエレナのPドルも書いたのも今年か。2月だもんな。あれはもはや他人が書いた作品で、今はもうだめだめです。肇ちゃんの話のプロット的なものを書いたけど、文章に起こせるかどうかは分からない。書きやすそうなシーンから書いているけれど、ゲスト出演と思っていた田中の出番があまりにも多すぎる。どんなアイドルか、私が自分の中で像を形成できている田中が出てくるシーンが書きやすいからか。

 

 理想とはほど遠かった大学生活もクソみたいな部分しかないわけではない。

 一人暮らしを始めたおかげもあって新しい趣味とか出会いが多かった。カメラを初めてポートレート写真を眺めるようになったし(自分では撮れないから眺めている)、サークルではカメラ係だと自分で思い込んで飲み会の度に写真を撮っている。ちなみにここには自分が写ることがないのは悲しい。

 短歌を読むようになった。なんか鬱々していて本も読めなかったときに「これなら読めるやろ」と思って買ったのが始まり。31文字ですぐにエモくなれるから非常によい。

 あとは欅坂なんかにも。アイドル番組とか、アイドルへのインタビューなんかにも意識を向けるようになったから、アイドルの二次創作書いたらかなーり生かせるんだろうなほんとに。今プロット書いた肇ちゃんの話もかなりそこからの影響が大きい。私は二次元アイドルが好きなのではなくてアイドルが好きなのだった。オタクの一部は同じような人いると思う。騙されたと思ってアイドルソングを聴くと良いです。

 そして陶芸。夏休み以降狂ったように取り組んでいるし、今はちょうど電動ろくろを練習し始めたところ。ものを作るのは好きだからかはまってしまっている。これから寒い冬の間も取り組み続けたいものです。水が冷たくなるとあんまり陶芸したくなくなるんですよほんとうに。

 

飽きたので続きはまた。

 

何も為さずに終わる人生

 忘年会の幹事を決めるようなシーズン。本当に信じられないよな。もう十二月になるということだ。なぜだか知らないが焦燥感に駆られがちな師走。私もまた、目に見えない何かに追われている。何かを成せよ!

 何を成せというのか。アイデンティティは便の形もろとも消え去った。アイデンティティの喪失は薄々気づいていたのだけど、下痢に悩まされて眠れない夜を過ごしている間にその喪失は確定されることとなった。最近は人に合わせてヘラヘラしている事の方が多いし、私が好きなものは何だ?という問いかけに対して曖昧な返答しかできない。アイドルでしょ、と思っていたけれど今はそこまで熱を上げられていないのが現状である。

 好きな物が変遷するのは良いとしよう。一途ではないのは偉くないかもしれないが、好きな物があるのはいいことだ。一番金を使っているのは本、しかしながら奴らは値段が張るからというだけのこと。小説、短歌、そんなもん。短歌に関してはもう少し詳しくなれば自分でも満足いくものが詠めるかもしれない。本に関しては、完全に金が足りていないから京都市の図書館カードをいい加減作るべきではある。最近の読みたい本と言えば大抵は単行本だし。

 陶芸も好きだし最も時間をかけているが、惰性でやっている感が否めない。もう少し作りたい物を明確にして満足のいく物をつくるようにするべきなのだろう。

 何が言いたいのかというと、心から好きな物がねーのですわ、ほんまに。このままだと本当に酒を飲んで大学生活が終わる。アカン。就職もできずに。人生ドロップアウト

 殺す価値もないくらいにクソみたいな人生を歩んでいてもうアカンわ。

 明日になったら大腸癌が発覚し、治療費を出そうとする親を見て「俺のことはいいから妹の夢を叶えるためにそのお金を使ってください」っていう遺書を残して失踪したい。それだと妹は兄の自殺という重みを背負って夢を追わなくてはならないのか。それはそれでかわいそうやな。よかれと思ってしたこともだれかの重荷になったりする。クソだわほんと。

2018/11/14

 家に居るとお腹は痛いし、うんこはもりもり出るし、よう分からん。家から出たくないという精神的な胃腸炎なのかもしれない。別にそこまで大学が嫌いなわけではないし、むしろNFに向けて陶芸をしたいのだが……

 やる気が出ない人に対して「とりあえず手を動かせ」という人がいる。あながち間違ってはいないのだけど、手を動かすまでにも多大な労力が必要で、たいていの場合私はそれを用意できない。「とりあえず手を動かすためのやる気はどこから!」というのはネット上でもしょっちゅう叫ばれている問いである。

 答えは難しいことではなく、ルーティンワークなのだと思う。とりあえずその作業をするような習慣を作っておく。冷たい水に触ったりする面倒な作業である陶芸を、なぜ私は毎日やるのかと問われると、習慣化されているから、という答え以外を得ることが出来ない。何かを為したいならそれに向かって何かを習慣化すればよいのだろうなあ。

 空きコマに勉強でもするべきだなー。

2018/11/12

 社会の中に生きる私という人間が存在する。

 ここで重要なのは社会の中で生きているということである。義務を果たして共同体の中でやるべきことをやって生きている。とりあえず大学生である私は講義に行くべきである。講義に行かないにしても、勉強になる何かをすることが規範である。

 今は規範の中に収まっているが、そこから逸脱してしまうのは簡単である。大学に行かなければそれはもう規範の外にある大学生である。ぶっちゃけ単位が取れていれば卒業できるのだから、単位が取れればいいのだが、私は講義に行かずに単位を取るほどの器用さを持たない。またテスト前に泣きながら勉強するのも性に合わない。だから規範の中に収まっている必要がある。

 しかしながら、規範に収まっているといってもそこには危うさがある。おそらくだけど、一日でも意図的に大学に行かない日があれば、その後の日は全く大学に行かなくなるだろう。規範に収まる自分は砂上の楼閣のごとく、簡単に崩れ去ってしまう危険をはらむ。

 何が書きたかったかというと、何かに関して妥協をすると、ジェンガの下の方を抜くのに失敗したみたいに全部が崩れる、もう駄目、社会的死、ということなのだが、言葉遊びがうまくないので書けません。

 去年も妥協に妥協を重ねて勉強時間ゼロで授業も聞かない規範外受験生へと成り下がってしまった身であり、そこから規範に戻ることは叶わず、規範の中にいるひとたちはすごいなあ なんて思っていたから、規範の外には行っちゃ駄目。私のように心が弱い人が行くと本当に社会からドロップアウトしてしまう。社会からドロップアウトした方が幸せなのかもしれないけど、教育に金をかけられてきたこの身、簡単にドロップアウトさせていいのか?よくねーんだろうな~~~

2018/11/11

 鬱になるとやるべきこともせずに自分語りを始めたくなってしまうというのは治すことができず、別に治す必要もないし構わないか、という考えに至っている。後で読んでみると面白いし。黒歴史刻んでいるけど。

 今の鬱は季節云々ではなく、単純に病気をしているせいでしかないが。

 

 胃腸炎で何も食べられなかったから、生産的な活動が出来ない。そこで私が走ったのは受動的な娯楽であった。高3になった春に劇場まで足を伸ばして観に行った『夜は短し歩けよ乙女』と、中学生の時になんとなく見てしまった『四畳半神話体系』を見た。両者とも、原作は中学生の時に暗記するくらい読んでいたのだが、高校時代には他人に勧めることはあれど、自分ではめっきり読まなくなってしまった。

 私が京都大学に行きたいと思わせてしまったのはこの二つの作品なのであった。実を言うと、中学生にして「京大行きて~」と言っていたのである。しかし、私は地方の公立ヤンキー中学に通ってテニスを頑張っているだけの中学生だったから、「京大行きて~」と言うのは「宝くじあてて~」と言うのと同じような話なのであった。

 ところがどっこい、私は県内のトップ校呼ばわりされている高校に進学してしまい、シークレットブーツを履いて背伸びをすれば京都大学に手が届きそうになってしまった。一年生の時はみんなが東大志望みたいな学校だったから(現実を受け止めるとだんだんとその数は減っていく)、私は京大志望を名乗った。

 私の住む街が田舎過ぎて娯楽がなかったおかげで私は勉強くらいしかすることがなく、そのせいで成績を伸ばすことになる。進路を真剣に考えなくちゃいけない時にも、深く考えずに京都大学と書き、「なんで?」と聞かれると「憧れじゃないですか~京都」とヘラヘラしながらかわしていた。

 もはやこの時期になると、『四畳半』や『乙女』の具体的な内容を覚えておらず、なんとなく楽しいイメージを持っているだけであった。己が勝手に作り上げたイメージで京都を塗ったくっていたのだから、他の大学など志望候補に登るはずもない。滑り止めとして受けたのも同志社であったし。

 そしてなんか知らんが私は今京大に在籍しているらしい。

 

 『乙女』と『四畳半』を見て。内容を鮮明に思い出したけれど。

 『乙女』の方はまだ実感がない。そもそも主人公が恋しているのは後輩の黒髪の乙女だし、私は未成年だから飲み歩きたくてもできないし、NFはこれからだし、冬のパンデミックも同じだろう。地名が出てくると「あそこや~」ってなるのが面白かったけど。

 『四畳半』の方は見ていて辛かったというか、私もあんな感じのクソゴミ大学生に成り下がっているからやべえなと思えた。クソゴミ生活も楽しいからいいんですよ、でも何も残らんね。森見登美彦が書く世界に導かれて京大に来たのならああやって無駄に学生時代を送りに来たってことだからいいのかもしれないけど。

 

 大学生活はとりあえず無為でしかない。もっと真剣に将来を考える機会があれば、というかそういう機会はあったから、私がちゃんと将来を考える態度を取っていれば、ここにはこなかったであろう。法曹を目指して中央大学に行っていたかもしれない。(あそこには陶芸部があるよイエーイ!)

 諦観のおとこだから夢に向かって頑張る気になれない。そもそも俺は何になりたいんだ?という問いから逃げ出しながら毎日を無駄にしている。

 

ダイアリーア

 はてなダイアリーでダイアリーアについて書くとは夢にも思わなかった。クソ寒ダジャレ。ダイアリーアという単語は校内模試で出たから覚えている。「え~!?教科書でも出てきたから脚注つけなかったんだよ~?」と言われたのが懐かしい。

 教科書では国境なき医師団か何かについての記事で、途上国での子供の死因として多いのは何かという話の時に出てきた。下痢が上位に上がるのは馬鹿らしいと思っていたが、久しぶりに経験した今となっては馬鹿らしくないわ。簡単に人は下痢で死ぬ。便を出したくなくてもそれは出るし、同時に大量の水分も体の外へ。水分補給をしないと干からびて死ぬ。

 俺は徒歩一分の所にあるスーパーで電解質の入った飲料を買って狂ったように飲んでいるから幸いなことに干からびていないが、そういうものが容易に手に入らない人間というのは簡単に死ねる訳だ。こっわ。ほんまに。

 しかも食事を受け付けなくなるから、もともと栄養失調気味だった人は死ぬ。